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ついでに甘いものも

甘いものもやめてみようか、と
・・・いや、まったくやめることはできなさそうなので
頻度を少なくしてみるか

仕事中。
意識してみると
夕方以降に、手がのびることを自覚。

つかれたー、よくはたらいたー
もうひとがんばりー
ってときに、甘い物をつまもうと席を立つ。
(あまいものがちょっと離れたところにある)

もうひとがんばりー
を、しなければ、もっと早く帰れる。
明日の「朝」にまわせばいい。
もっというと
誰かに手伝ってもらえないか、考えればいい。

ひとりでなんとかしようとする前に
より多くの人でできるようにすること
もっと上手にできる知恵を集めるほうが
たいせつ。

明日も、意識的に
何かを「やめて」みようと思います。

おやすみなさい、また明日。

カフェインをやめてみて

おはようございます。

研修の参加をきっかけに
カフェインをやめてみて、かれこれ20日。

コーヒーか紅茶か緑茶の
チェーンドリンカーだったけど
やってみたら案外できて、
チョコレートの間食も止みました。

カフェインのないもの
と、意識的に選んでいると
無意識に手に取る瞬間に気づくことがあります。

それがカフェインでなくても
たとえば甘いもの
たとえば携帯(SNSのチェック)
手にしようとする動作の前に気づきます。

カフェインは気づいて、やめてるけど
甘いものと携帯は、そのままです、おっと。

カフェインは
まったく止めたのではなく、
こないだ、一回、緑茶をいただき
しみわたるおいしさでした。
次はどこかでおいしいコーヒーをいただこうかな。

味わう、自分を満たす。

それは必ずしも多くのものを必要としないですね。

無自覚な習慣から少し離れる。


今日も皆さま、おすこやかに。

誰かへの形容詞は私の問題( 存在感やエネルギーについて)

こんばんは。

また、唐突に書きます。

誰かの存在感なりエネルギーから
強さ、弱さ、怖さ、やさしさを感じたとして

その形容詞は
その存在である「相手」の話ではなくて
自分の問題、感じ方ですね。

エネルギーの差を感じて怖れるときほど
相手に形容詞を投げつけがちかも。

「強さを感じる、あくまで私の感じ方だけどね。」
ということですよ、ほんとはね。

その人は、
強くも、弱くも、怖くも、やさしくも、ある、
かどうかは「わからない」。
私は、その人のことを
強くも、弱くも、怖くも、やさしくも感じる。
もっというと
形容詞を離れたところで
その人のそのままを感じる。

エネルギーや存在感。
その前で、私もそのままでいられる感覚は
こそばゆくも、新鮮です。

あと、探求してみたいのは
「リズム」です。
会話の、目線の、間合いのリズムに
注目してみます。


今日のギフトは
C+F研究所「エニアグラム月例ワークショップ・本能タイプ」
からいただきました。
感謝。

おやすみなさい、また明日。

スキルではない何か

こんばんは。

すこし唐突に書きます。

スキルではない「何か」が私の内にあって
それが地道なスキルの積み重ねで
形になるまでに

どうもそのスキルではない何かに
圧倒されるような
なかったことにするような
感覚が私にはあります。

そのうちに
スキルそのものの熟達に甘んじることも
あるのですが

スキルをつけているそのこと自体の奥に
スキルではない何かの存在を
認められるように。

本筋と違うとか、本質と違うとか
きっとそんなことはない。

違う、と思う、その本質は
「ある」。
だから「違う」と思える(思うことができる)と。

おやすみなさい、また明日。

聴く、その間を

会議で、

ぽんぽんと意見がでてくるなかで
ちょっと黙って座ってみたら

会議のメンバーが
すこしかぶせ気味に
あわてて返事している
ことに気づきました

私はおちついてそこに居ました。

まず、きく、ことで発見することは多いです。

・・・やや疲れたので
ゆっくり寝てみます。おやすみなさい。

朝の読書から

おはようございます。

以前から少しつっかかりを感じて
積んでおいた本を
今朝、一気に読めました。

つっかかり。
その本から「私は論理的ではない」と
指弾されているように感じていました。
実際「論理的に伝えたい」という思いから
その本を手にとったのに。

その本から私が実際に得たものは
・自分の見方
・他人の見方
・俯瞰
の哲学と具体策でした。

実際読んでみたら
私は別に指弾されてはいなかった、あたりまえだけど。
論理的でない、という自分の考えというか責めに
つまづいていたのがわかりました。

本のなかで取り上げられていた世阿弥の
「目前心後」
(自分は自分のことを見ることはできないながら
目の前の人が自分を見るときの目をもち
自分の心は自分の後ろ姿を見るように)。

そのイメージに、心服しました。
こういうイメージを言葉から味わうことは喜びです。
本を手にとった甲斐があったというもの。

論理的というのは、
ゆっくり、おちついて、順番に
ひとつひとつの視点
わたし、あなた、俯瞰
を味わうこと
ととらえることもできそうです。

伝えたかったことは
・つっかかりを楽しめた経験
・私のとらえた「論理的」
でした。

今日も皆さま、おすこやかに。

待ってみる

こんばんは。

会話のなかで
沈黙や気まずい感じを避けて
「わかってないこと」を隠して
「わかっていること」が嬉しくて

会話のなかで
わたしは相手の言葉をひきとって
早い返答を返しがち。
相手の言葉のあとに「間」がほとんどありません。

それでもずいぶん沈黙を怖れなくなった
と思っていたのに、

いやぁ、、、、まだまだです。

待ってみる。
わからなければ、尋ねてみる。

もっというと尋ねるまえに
相手の時間を充分に味わう。
ことばと雰囲気を味わう。

そういう姿勢を大切にしたいです。

そして、私の「早さ」も生かしたい。
返答そのものはゆっくりでも
なにか「ぴん」とくる気づきの早さを
自分でも味わいたいです。

おやすみなさい、よい夢を。

バイロン・ケイティ・ワーク集中特別ワークショップ

こんばんは。

夏休み第2弾は、バイロン・ケイティ・ワーク集中特別ワークショップへ。
http://www.transpersonal.co.jp/p/byron-katie-work/

自分の「外(他人、社会、など)」に求める「思い」「考え」を素材にして、
問いや置き換えをかけていくことで、
思いがけないギフトを己の胸の奥に置くようなワークです。

問いや置き換えはシンプルです。
問いを探求し、主客や内容を逆に、あるいは「自分」に置き換えた文章について
具体例を挙げてゆきます。
その過程で、相手を裁くもともとの自分の思いや考えが強固であるほど、
新しい世界なり可能性への扉を開きます。

このワークはどこでもできるものです。
今までも小さいことから大きなことまで多く経験してきました。
合宿の最もよかった点は、静けさと「間」と自然のなかで、
ありのままのすべてに「初めて見たような興味を持つ」姿勢を保てたことです。
それと、様々なデモンストレーション、様々なバリエーションのワークで、
「気づく」という奇跡的な瞬間に多く触れ、実感できたことです。
その「クリア」さ。

何度ワークをしても、
相手を裁いて批判して求める同じ勢いで、
自分を小さくし、痛めていることを実感します。
そういえば最近、自分の考えや枠組みそのものを否定したくなったり、
その勢いで反発したりしていたな、と。
繰り返し考えが浮かんでも、枠組みにとらわれていると感じても、
何度でもワークをやればよいだけだったんだ、と。
否定せず、興味をもって、探求すればよいだけなんだと。

 繰り返すものとともに歩む。
 枠組みとともに歩む。
 新しい静けさとともに生きる。

滋養たっぷりの夏休みでした。

一仕事、くぎり

すったもんだ、いろいろあった仕事。
今日、納品をうけて完了。

おつかれさまでした、ありがとうございました
と挨拶して

同僚の機動力にも
上司の観察力にも
受注してくださった会社の、実現力にも
感謝。

まず、ふりかえりをします。
それと、今回の納品物をつかっての、仕事の組み立ても。

さて。
明日から夏休み第2弾です。

3日ほど、ブログはお休みします。
おやすみなさい。

終わらないのか

自分の小さいころから
今日のこの日は特別で
想像を超える犠牲者を悼み
隣国への仕打ちに心痛め

これは
この先もずっと終わらないのか

思うと、重くなる
薄れさせたくなる。
こんなことがあったのだと
突きつけられれば逃げ出したくなる。

でもやはり、終わらない。
そして
どうなれば終わることになるだろう。

本当に伝えたいことは何か。
本当に、腹のそこからどう思っているか。
自分のそれに、ひとりひとり気づき
それを伝え合うことから、だろうか。

悼むだけでは終わらない。
終わらせることが目的ではないです。
ただ、なにか、
悼む、悲しむ、憤る、のその先に
つい行きたがってしまう。

67年目、終戦の日。

おやすみなさい、また明日。

ほぼ日「書きかけてやめた、福島のことを、もう一度。」

どの国にも
本当に圧倒的な悲しみ、
そこだけ落ち窪むような体験はあるでしょう。

日本は、戦争と災害にその根をもち
ひとりひとりにとって
今も痛みはそのままです。

薄れない悲しみの前に
触れた他人のすることは
そばにいる、きく。
そうでこそ、人の居る意味があるように思います。

では、それを、
別の人に伝えることの意味は?

私は、
本質的につながるために
優れた伝い手の存在は
欠かせないと思います。

いま、リンクを貼れませんが
「ほぼ日刊イトイ新聞」の
「書きかけてやめた、福島のことを、もう一度」は
その点、秀逸です。

悲しみを伝えることを
あきらめなかった文章です。

お盆

青森にきています。
夫の故郷です。

実はお盆のハイシーズンに
来たことはありませんでした。
いつも混雑する時期を少しずらして
休みをとってたけど
今年はマトモにお盆の週。

商店街はお盆休みでシャッター下りてて
墓地までの道は渋滞。
お墓の、なんと賑わっていること。
人と花とお供えでお墓が明るいのです。

こちらでは
「法界折」という
おかずを数種つめた折り詰め弁当をお供えします。

お供えしてお線香あげたら、
その折り詰めをいただいたりしながら
少しの間、皆で墓のそばにいます。

今日は大雨でながくはいられなかったけど

お墓参りも、親戚まわりも
お互いの無事を見せ合い
存在を大切にする時間だと思います。
こんなにも多くの人が
墓に眠る人と近づく数日です。

おやすみなさい、また明日。

やりきったと思えるのは本人のちから

こんにちは。

連日続くオリンピックの熱戦を、極力ライブで見ています。

試合の競り合いにはもちろん
手に汗握る、ヒリヒリするような緊張感があります。
そしてある瞬間、決着がついたときの
爆発するような喜び、あるいは、残念さ。

まったくの無関係者がこうなのだから
その試合を為して、終えた人には
どれだけ身心を尽くしての、強い感情のわくことでしょう。

試合直後の様子はずっと追うし
インタビューは欠かさず見ます。
当事者からしか発せない、ことばや表情を
ありがたい気持ちで受け取ります。

力を尽くせなかった、と悔いを残す選手もいます。
限られた、濃密な時間に、
すべてを出し切ることの、実は難しさがある。
出し切ったとして、
必ずしも結果がついてこないこともある。

それでも「やりきった」と言える選手もいます。
すがすがしい表情には
そこにいたる、当人にしかわかり得ない日々を
受け止められるちからを感じます。

やりきれることも、
やりきったと思えることも
本人のちからなのだと思います。

ひとつの終わりを認めるちから。

やりきった。
そう思えるくらい
そこまで振り切れるまでやることを
怖れないようでありたいです。

おやすみなさい、よい夢を。

書く道具

おはようございます。

文章を書くのに、
一番たくさんの時間、
使っているものは何でしょう?

私は
仕事だとパソコンのキーボード、
仕事離れると、最近はガラケーのボタン。

キーボードが一番早いけど
早いぶん長くなるから

読みやすさを考えるとき
ガラケーもけっこういい仕事します。

手書きは最近下手になったけど
いちばんすきなのはホワイトボードとボードマーカー。
次に、三菱ボールペンのジェットストリーム。

思いつくまま何かを書くとき、妨げないから。

しかし。
最近、散逸、紛失がやや多い。

あらためて
ちゃんと手帳やノートに
主語述語の揃った文章を
手で書こう、
と思う次第。

なぜなら
思考というより
思いつきのトビというかヌケをなくして
落ち着くため。

いつのまにか立秋。
来週アタマには青森。
秋のはしりを感じてきます。

いや、その前に
目の前の、仕事でございます。
トバさず、ヌカさず、考える。

今日も皆さま、おすこやかに。

極私的昔話)魔女

昔話。

学生の頃、
通っていた大学の近くの喫茶店。
魔女に似たママがひとり切り盛りしていた。

まだ高校生のしっぽをぶら下げてた私は
友達と学食や、もっと敷居の低い喫茶店にいた。
魔女の店には先輩に連れていってもらった。

カウンターと数卓のテーブル席で
先輩は年上の学生と議論しているか
あるときは、一日編み物をしていた。
魔女とも、仲がよかった。

魔女はあまり笑わない大人で
何か深い雰囲気をたたえていて
常連が慕って囲んでいた。
渋い雰囲気に憧れながら
やはりなかなか一人では足が向かないまま、

先輩も卒業し、
私自身、少し大人になった頃。

魔女の店は
突然、モスバーガーになった。

魔女は、帽子の中に髪をまとめて、
学生アルバイトに混ざって
レジで笑顔を向けていた。

生きるとは、
一人、立つとは
こういうことだと、
そのとき私は思った。

魔女はどうしているだろう。
たぶん、その頃の魔女の年齢を
私は超えた。
私なら、どうしただろう。

昔話にお付き合いくださり、感謝。
おやすみなさい、また明日。

夏の雑感

おはようございます。

週末は、
オリンピックをみて
テレビのドキュメンタリー特集をみて
自分からやや遠いことに一喜一憂。

オリンピックには
ライブの、手に汗握る、ギリギリなドキドキと
結果への爆発する感情を味わい

ドキュメンタリーには
関わる人の表情やことば
抑揚の少ない、淡々とした様子に
かえって真実味を感じました。

何がどうつながるかはわからないけれど

4年に一度の舞台の後ろに
他人には理解できない研鑽の時間があり、
目指してたどり着けなかった人たちがいて、

ドキュメンタリーに出ている人たちにも
そこにはにじみきらない痛さがあり
そこには出てこない人たちがいます。

出た結果、完成したものから逆算して、
予定調和にもっていかないように

そこまでの多くの時間
現れない全てのものに敬意をはらい

目の前のことに取り組む。
小さくても、声をあげる。
仕事にせよ、何にせよ
私の今日をきっちり生きる。
見てみぬふりをしない。

なるべく。
それが、せめて、できることです。

日本の夏はどこか静かです。
もしかしたら多くの国で、
その国の静けさがあるのかもしれません。

少し遠くのなにかに気持ちを揺らした後は
目の前の今日を生き
今日から数日は
あわせて、鎮魂の祈りです。

今日も皆さま、おすこやかに。

とぶような1週間

こんにちは。
1週間ほどごぶさたしておりました。

朝から晩まで仕事して
通勤時間は携帯でSNS見て
オリンピックやら何やら追いかけ
帰宅したら寝る

で、気がついたら週末になってた1週間。

仕事は
なんとかやりきってはいるものの
手一杯になりながらヘルプの遅いのと
先を読めずロジカルに考えられないのと
周囲に感謝が足りない・・・

・・・さて、と。

今日は気持ちを変えて
洗濯と布団干し。

はやめにとりいれた布団で
うっかり寝てしまったら
洗濯モノが通り雨に当たってました。

・・・そんなこともあるさ。


おやすみなさい、また明日。

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